小柄な野球少年が、
なぜサッカーを始めることになったのか

 サッカーがマイナーだった60年以上前の日本。男子のスポーツと言えば野球で、小学生時代の二村氏が熱中していたのも野球だった。そんな少年の幼なじみだったのが、近所に住む1つ年下の釜本氏。中学生になり、まさかと思える事情で嫌々ながらサッカー部に引き込まれた二村氏が顧問の教師に厳命されたのは、抜群の運動能力で名を馳せていた釜本氏をサッカー部に連れて来ることだった。驚くべききっかけだったと言える二村氏と釜本氏のサッカーとの出会いだが、この2人がいなければ現在につながる日本のサッカー界の歴史は存在しなかった。日本にはプロのサッカー選手が存在しなかった時代、サッカーにすべてを捧げた彼らの魂は、まぎれもなくプロフェッショナルだった。選手として、指導者としてサッカーに向き合ってきた生き様が、この1冊に記されている。

「上手い選手」と「勝てる選手」は違う

 プロリーグであるJリーグが開幕し、日本のサッカー界には「上手い選手」が増えた。一方で、「あいつがいるから勝てる」と誰もが思うスーパースターの選手は増えただろうか。勝つためにプレーする以上、やはり結果を残さなければならないのがスポーツの宿命。山城高校サッカー部を創設した森貞男監督の口癖もまた「勝ち癖をつけよ」だった。その理由はどこにあるのか。ちなみに、勝つために必要な技術の本質を突き詰めれば、ボールを「蹴る」「止める」。スーパースターの釜本氏は子どもたちのサッカー教室で指導する際、今も「ちゃんと止めて、ちゃんと蹴れるようになれ」と基本の大切さを伝えているという。世界に追いつくために欠かせないと言われる「個の力」。「第二の釜本」の登場を切望する二村氏が寄せる「日本サッカーへの期待」とは、一体何なのだろうか。

時空を超えたサッカー・ストーリー

 もし、二村氏と釜本氏があと30年後に生まれていれば、日本代表チームでどんなサッカーを見せてくれただろうか。そんなことを思わせるほど、2人のコンビネーションプレーは見事に息が合うものだった。共にピッチを駆け回った戦友同士として輝かしい成績を残し、引退後もそれぞれの道で日本サッカー界の発展に尽くしてきた彼らの胸に去来する言葉とは。人と人が出会うことの素晴らしさ、リスペクトし合うことの大切さを実感させられる対談も、ぜひ一読いただきたい。

目次

第一章 
サッカーと出会い、
熱中の学生時代

・野球か、サッカーか
・あいつがいるチームが勝つ
・上手い選手と勝てる選手
・あこがれの全日本ユース代表
・山城高校サッカー部に入部
・京都の“三羽ガラス”
・基本は『止める』、『蹴る』
・アジアユース大会で1勝3敗
・クラマーさんとの出会い
・「釜本ルール」ができた
・あの頃の重いボール
・早稲田大学「ア式蹴球部」
・小柄な1年生レギュラー
・「名監督」は薬屋さん
・関東学生リーグ、東西対抗で2度優勝
・再び、釜本とコンビ
・「ツー」といえばパス、「カー」といえばシュート
・2年生で「天皇杯全日本選手権」優勝
・二村主将の「天皇杯全日本選手権」準決勝
・相手チームに釜本がいる!

第2章 
私と釜本の特別対談


第3章 
選手、指導者、
そして「サッカー愛」

・社会人トップの東洋工業に入社
・骨折…まさかの栄養失調
・ピッチの外で、楽しいひと時
・対戦相手の怖~い「存在」
・「京都招待」で釜本とプレー
・騙し合い、駆け引きも楽しみ
・日本代表チームで、外国を知る
・スウェーデン戦で決めたゴール
・10年間の現役生活、今も誇り
・育成、指導の道を行く
・「札幌マツダ」サッカー部
・子どもたちの夢を育む「二村杯」
・セレッソ大阪のユース総監督
・オシムさんとの「縁」

第4章 
日本サッカーへの期待

・変わることない基本の大切さ
・いろいろな練習がある
・『崩し』ができる選手に魅力
・海外でのプレー経験、伝えよう
・釜本は、ゴールまでの道のりを描く
・現れよ、“第二の釜本”

出版キャンペーン
購入者全員に特典プレゼント


サッカーに囲まれて過ごした青春時代
サッカー選手に必ず必要になる力
二村氏が思う釜本二世とは
サッカーで勝利をつかんだ先の景色
二村氏、釜本氏から見る今の日本サッカーの弱点か?


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著者紹介



二村昭雄  にむら てるお

【選手歴】
1956年 ー 1958年:京都市立蜂ヶ岡中学校
1959年 ー 1961年:京都府立山城高等学校
1962年 ー 1966年:早稲田大学
1966年 ー 1976年:東洋工業

【監督歴】
1978年 ー 1980年:札幌マツダ監督
1981年 ー 1983年:東洋工業監督
1995年 ー 1997年 : セレッソ大阪下部組織総監督

釜本邦茂の1年先輩として、小中高大と同じ学校に所属。大きくはない体格ながら、ポジショニングの良さや状況判断力などが光るミッドフィルダーとして活躍。
京都山城高校時代から全日本ユース代表に選出され注目されていた。卒業後、早稲田大学サッカー部(当時は ア式蹴球部)に入部。2年時には天皇杯で日立本社(現柏レイソル)を破り大学サッカー部が天皇杯で優勝するという快挙を達成。
卒業後、東洋工業(現サンフレッチェ広島)に所属し黄金時代を形成した。日本代表にも選出され、 国際Aマッチでの得点も記録している。