「樋口ではダメだ」と言われた若き日の苦悩

高校サッカー界の名門・四日市中央工高を24年間に渡って率いた名将・樋口士郎氏。その間の戦績は全国高校サッカー選手権大会出場15回で、そのうち準優勝とベスト4がそれぞれ1回ずつ、ベスト8が3回というもの。しかし、就任当初は前任の城雄士監督と比較されて「樋口ではダメだ」と酷評され続ける日々だった。そんななか、名門校の2代目監督を支えていたものは「四中工サッカー部の基本理念」と名付けられたポリシーの存在。四中工サッカー部を一から築いてきた城監督の教えを、監督に就任した頃の樋口氏が明文化したものだ。

一人では何もできない

駆け出しの指導者であった若き日の樋口氏は、結果の伴わない状況に苦しんでいた。そんな苦境を乗り越えるきっかけとなったのは、ある一つの気づきだった。「一人では何もできない」。何もかもを一人でやろうとしていた若手監督時代には結果がついてこなかったのだが、スタッフを信頼し、任せることの重要性に気づいてからは一気に結果が伴うようになった。四中工サッカー部が一つの「ファミリー」となったとき、樋口監督は名将への道を歩み始めたのだ。本書には若き日の樋口氏が苦しい時代を脱するに至った過程が詳しく語られている。

常勝チームはBチームを大事にする

24年間の監督生活のなかで、樋口監督が辿り着いた「常勝チームの育て方」。それは「Bチームを大事にする」ということだった。一軍も二軍も分け隔てなく扱う。誰もがトップを目指すという環境のなかで醸成されていく常勝チームの空気。ワールドカップのピッチにも立ったOB坪井慶介も、四中工サッカー部時代は「三軍」からのスタートだった。サッカーをはじめとするすべてのチームスポーツの指導者はもちろん、「チーム」を率いるあらゆる分野のリーダーにとっての必読の書。

目次

第一章 「名門・四中工」の重みに苦しんだ就任当初
ー就任1年目は11年ぶり県予選敗退の大失態
ーエース鈴村を起用せず、大きな代償を払う
ー2年目は全国大会出場、しかし苦悩は続く
ー「ファミリー」の誕生が苦境脱出のきっかけに
ー名将・城監督の「亡霊」に打ち勝つ

第ニ章 「基本理念」のベースとなった城サッカー
ーもう一人の恩師、中学時代の上島先生
ーパートナー伊藤とともに四中工へ
ー選手権出場を逃した下級生時代
ー浦和南高の3連覇を阻止して決勝進出
ーシンプルだった城サッカーの本質は

第三章 高校最高レベルだった「四中工三羽ガラス」
ー選手権で注目され、高校生で日本代表候補入り
ー叶わなかった日本代表の夢を教え子に
ー指導者として母校・四中工に帰る
ー「四中工三羽ガラス」との出会い
ー帝京高との両校優勝で初の日本一
ー「三羽ガラス」が指導者としての基準に

第四章 常勝チームの育て方
ー常勝チームはBチームを大事にする
ー「ファミリー」の力で環境を整える
ー全員がトップを目指すことが重要
ー優勝には「裏付け」がある
ー3軍スタートだったW杯戦士の坪井慶介
ー指導者として活躍する四中工OBたち

第五章 24年間で大きく変化した選手の気質
ー成長する選手は目標設定ができる
ー選手の気質の変化に苦しんだ最後の数年間
ー伊室新監督が引き継ぐ「四中工イムズ」

第六章 三重サッカーの未来
ー三重初のJリーグ入りを目指すヴィアティン三重
ー高校年代と中学年代の指導の違い
ー三重県に合った育成の形とは?
ー多くのトップ選手を輩出する高校の部活動
ーJリーグのある県とない県の差は大きい

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著者紹介



樋口士郎  ひぐちしろう
1959年9月9日

三重県三重郡川越町出身の元サッカー選手、 サッカー指導者 。
ポジションはMF(守備的MF)、DF。日本サッカー協会公認B級コーチ、三重県サッカー協会技術委員、国体少年選抜テクニカルアドバイザー。
ヴィアティン三重強化部長兼アカデミーダイレクター.実弟の樋口靖洋も元サッカー選手。