鉄壁守備の基礎

守備のスペシャリストとして名を馳せた、秋田豊氏。1対1の戦いでは絶対に負けないという、熱い魂が見えるプレーでファンを魅了した。常勝軍団「鹿島アントラーズ」の黄金期を支え、日本代表でも海外のフォワードを相手に鉄壁の守備を見せた日本サッカー史に名を残した。その鉄壁守備の基礎には、シンプルな哲学があった。きっかけは回復に半年を要するほどの大怪我だった。ピンチを機に見直したのは、自分の武器についてだった。誰にも負けない自分だけの武器。半年もの間悩み続け、ついに見つけた復活の方法とはどんなものだったのだろうか。

プロフェッショナルの哲学

子供の頃から飛びぬけたサッカーの才能を持った選手ではなかった。それどころか、おそらく学生時代に私に関わった指導者の方たちは、誰も私がプロになるとは思っていなかったのではないかと思う。彼は、自身をこう振り返った。そんな彼が守備の要として日本代表まで上り詰めた根底には、プロフェッショナルとしての哲学があった。それはサッカーの「神様」ペレから受け継いだものであり、またワールドカップ予選リーグを突破に導いた名将・岡田監督から引き継いだものでもあった。勝利への飽くなき追求心の魂が本書では余す事なく記されている。

進化を止めない視野の広さ

セカンドキャリアではサッカーの指導者以外にもさまざまな分野に挑戦し続ける秋田氏。近年は世界でも注目されているe スポーツにも注力している。eスポーツとは「エレクトロニック・スポーツ」の略で、サッカーゲーム などのビデオゲームを使った対戦をスポーツとしてとらえる新時代のスポーツ。サッカー指導者としての経験を活かして、サッカーゲームの指導を依頼される。そこで挑戦の道を選んだ彼のチャレンジスピリットの源流とは一体どこにあったのか。その先を見据えるビジョンや視野の広さは、サッカー関係者のみならず、ネット業界など様々な分野の人々にも一読の価値ありだ。

目次

第一章 鹿島アントラーズの常勝の秘密
ージーコが植え付けた常勝の哲学
ーJリーグ開幕前の遠征が鹿島を変えた
ー「2強時代」を築いたライバル、ジュビロ磐田
ージーコ魂を見せた2001年のチャンピオンシップ
―鹿島はなぜ常勝であり続けられるのか
―チームを離れて分かった鹿島の強さ

第ニ章 プロサッカー選手への道のり
ー夏は野球、冬はサッカーだった子供時代
ーラグビー転向も考えた高校進学時
ーヘディングという武器を磨いた高校時代
ーバルセロナ五輪日本代表落選で挫折
―人生を変えた友人とのウエイトトレーニング

第三章 2大会に出場したワールドカップ
ー3バックへの変更で日本代表のスタメンに
ー苦しいアジアの戦いも、ポジティブ思考で乗り切る
ー衝撃的だったイランのエース、ダエイ
ー最初は受け入れられなかった中田英寿の存在
―練習で感じていたキング・カズのキレのなさ
―世界最高峰のFWバティストゥータとシューケル
―Jリーグでの世界的選手との対戦が活きた
―裏方として日本の躍進を支えた日韓W杯

第四章 プロフェッショナルの哲学
ー柔道の師範だった父の教えがベース
ー怪我を機にプレースタイルを変え、大きく飛躍
ー自分を成長させてくれたライバル、中山雅史
ープロサッカー選手としての引き際

第五章 監督としての新たな挑戦
ー現役時代から始めていた監督になる準備
ー目指す指導者像は岡田武史監督
ーほろ苦いものとなった監督人生のスタート
ー新天地・盛岡で7年ぶりの監督復帰

第六章 日本サッカーの未来
ー世界トップレベルに迫る日本サッカー
ーW杯で優勝するには育成改革が不可欠
ー日本人もフィジカルの強化が必要
ーサッカー指導にも活かせる「eスポーツ」
―プロを目指すなら野心を持ってほしい

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鹿島アントラーズが強豪と言われる理由
プロへの一歩。幼少期に確立できた基盤とは?
厳しい状況でのメンタルの切り替え方
世界と戦うためのプロの発想方法
世界に勝つためにはどんな育成方法がこれから必要なのか?


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著者紹介



秋田豊  AKITA YUTAKA

代表歴
1995年 サウジアラビア戦で代表デビュー
1996年 AFCアジアカップ1996
1998年 1998 FIFAワールドカップ
2002年 2002 FIFAワールドカップ

監督歴
2009年2月1日には、カシマサッカースタジアムにて鹿島アントラーズ対ジュビロ磐田を対戦カードとして引退試合が行われる。
同年11月30日には、監督職に必要なS級ライセンスを取得。

2010年7月、成績不振により解任された加藤久の後任として、コーチから京都の監督に昇格した。
当初は2011年までの1年半契約となっており、チームがJ2に降格しても続投する方針だったが、
就任後2勝3分14敗という不振から2011年度の契約更新を撤回され、わずか半年で解任となった。

2012年、東京ヴェルディトップチームのコーチに就任。11月、東京Vとの契約を解除し、FC町田ゼルビアの監督に就任した。
2013年シーズンは前半戦で3位につけるも、天皇杯のシード権を逃し、6月25日に解任された。

町田監督退任後の2013年8月23日、ジュビロ磐田がコーチ就任のオファーを出したと一部スポーツ紙で報じられたが、
その日のうちに磐田側から完全否定された。

2020年よりいわてグルージャ盛岡の監督に就任すると発表された。